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★ なんとなくふっと昔のことを思い出すことがあります。
そんなことをとりとめもなく これからも綴ってみたいなと思います。
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(12/18 更新)

22章 入学式 |
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中学の卒業式は感動的に終わった。
そして短い春休み〜
高校入試の発表以来 なにか違ったものが起こり
私の周りはなんとなくざわざわしていた。
何とか入学させたいと 家族も先生も骨を折ってくれるようになり、
道理を引っ込ませるべく無理を押しすすめていたのだろう。
春休みはほんの短い日にちしかなく
問題が完全に解決しないまま
入学の準備もなかなか整わず・・
私は戸惑いながら 半信半疑で自分の進学を
喜んでいいのかどうかうろうろしていた。
それから もうひとつ哀しい思い出があった。
ごく仲良くしていた友達が 志望の高校に失敗した。
それは誰もが信じられないくらい 予想外のことだった。
多分上がり性と言うかそんな問題だったようだ。
心配して訪ねたが 悲嘆にくれた友の様子に胸がつまり
私は自分のことのように悲しくて一緒に泣いた。
裕福そうなその家の様子と哀しい友の姿が
いつまでも私の脳裏から離れなかった。
そばで気遣っていたお母さんも気の毒だった。
裕福でも思い通りにいかないこともあるんだなあと・・。
結局彼女は私立の高校に泣く泣く進学する決心をしていた。
4月の晴れた日 入学式は厳かに行われた。
が 式場で真新しい制服に身を包んだ新入生の中で
たった一人 私は中学の制服のままだった。
すごく恥ずかしかったが 準備が遅くて入学の手続きが遅れていた。
制服が届かないままの入学式となった。
それでも晴れてK高の生徒になれたことは
それだけで嬉しかった。
伝統ある古い校舎の中で 小さな私は緊張のあまりもっと小さく固まっていた。
ぎりぎりで入学にこぎつけ 教科書等の準備は出来たが
少しの間は中学のセーラー服のまま通学した。
8クラス中2クラスだけに女子がいた。合わせて400名中33名だったと記憶している。
さすがに授業は難しく のんびりしていた中学時代とはまるで違った。
毎日気を抜くことが出来なかった。
授業についていくことが一生懸命だった。
それでも私は通学できることが嬉しくて
周りのみんながありがたかったし 中学の先生にお礼を書いたりして
愉しい高校生活になじんでいった。
学校から帰ると直ぐに 姉の居る店に行き
そこでタオルを洗ったり掃除をして床屋さんの手伝いをした。
先々店を手伝ってほしいと言う親の気持ちは変わってなかったし
私もできるだけ手伝うことにした。
それから家にかえると台所の仕事が待っていた。
中学の頃に脳溢血で母が倒れ 何とか回復はしたものの
健康な人ほどの用事は出来なかった。
私と弟と 直ぐ上の兄がたいていは台所の用事をしていた。
みんなで力を合わせて何でも 努力する、そんな時代だった。
そうやって 1学期が終わり、
夏休みもほとんど補修授業が早朝から行われた。
汗を拭きながら難しい授業がハードにすすめられた。
私は多分まじめでそして少しそそっかしい高校生だった。
友達も次第に増えて少しづつ学校にも慣れていった。
家ではいつも 姉としゃべり笑い 音楽を聴き
母の手伝いもよくしたし 店の加勢もよくした。
そんな高校生活がかけがえのないものだと言うことを
いつも認識していたのは あの入学までの苦しい経験の
おかげだったかもしれない。
苦学と言うほどのものではないが
少しハングリーを経験したことで 何かを学んだのだと
今 振り返って見ても そう思える。
2003年の年もやがて暮れようとしている。
あれからもう 40数年も過ぎていったことになる。
いろんなことがあったが〜 今幸せなシニアであることが
心のそこからありがたいと想う。
※ 何故かこのひとりごとはここで終わっています。
また 何時の日か 書きたくなったら何か書くかもしれませんが〜。
読んで下さってありがとうございました。
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(11/23 更新)
21章 願書 |
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やがて夏休みも終わり2学期 3学期と過ぎていった。
進学に向けてみんなの意欲も高まりどこの高校に行くかが
友達同士の話題の中心になった。
私は内心の秘めた思いをほとんど誰にも話さず
一人で思いをめぐらせていた。
もしかして 本当に進学できることがあれば N高に。
でも どうせこのまま行けないのだったら思い切ってK高に挑戦しよう。
それで駄目ならすっきり 進学を諦められる。
そう心に決めていたから
勢い勉強しなければ 自分で落ちていくだけだと思った。
願書を提出する時が迫ってきたが、
家庭の事情は一向に好転しなかった。
私は 仕方なく 思い切って自分の計画を実行した。
提出したあと 先生から当然お話があった。
私は 正直に自分の気持ちを伝えた。
先生はすんなりと分かってくれた。
やってみろ 頑張ってみなさいと励ましてくれた。
進学しないと解っている生徒にそんな指導をすることは
今考えれば 先生としては間違っていたかもしれないが・・・。
私には 先生がありがたかった。
それから 少したった頃
兄たちが何とか進学させたいと言う話が起こったり
もう一つの理由は 家業の理容業をやってほしいということだったが
それも少し伸ばして・・・とか話はあったが、確実ではなかった。
嬉しかったけれど 私はまたふらふらと迷うことになった。
折角先生に自分の決意を話したけれど〜。
もし 進学できるのなら
先生に相談して N高に願書の書き換えを頼もうか・・・。
私の決意は揺れに揺れた。
けれども 結局私は難しいK高を受けることにした。
それで 失敗しても家の仕事をすれば父母も助かるんだから・・・。
そう思っていた。
そう思うことで逃げていたのかもしれない。
あの時 N高に願書を出していたらそのあとどうなっていただろうか・・・。
K高普通科を受けた女子は私たった一人だった。
がけっぷちにいたのかもしれない。。
でも そのせいで 必死で勉強できたのかもしれない。
私はほとんど進学を諦めながら
進学できなくてもいいんだと自分に言い聞かせながら勉強した。
合格するだけでいいんだ・・・と。
3月半ば過ぎの発表の日、 私はそれを見に行く気にはなれなかった。
合格を知らせてくれたのは 近所の同級生だった。
私よりも 家のものよりも 先生や同級生 そして近所の人が喜んで騒いでくれた。
私は思いっきり 泣いていた。
嬉しかったし 哀しかった・・・。
昭和32年 早春の話である。
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(11/1 更新)
20章 進路 |
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中学校生活はとても愉しく過ぎて行った。
けれど この時期誰もが直面する進路のことで
私も人並みにものを考えることになった。
中学3年にすすむ前に進路についての話があった。
そのときから私の中に小さな悩みが生まれていた。
私は経済的なことと もうひとつ理由があって
早いうちから 進学を諦めるように言われていた。
それは私にとって辛いことだったが自分のなかで
理解し納得した部分もあって
親にそれほど抵抗した記憶はない。
多分大病をして弱気に成っている部分があったのかも知れない。
今はどうなっているのか分からないけれど
その当時 中学3年になるとクラス編成で
進学クラスと就職クラスに分けられていた。
私は親には反抗しない半面
就職クラスに入る気持ちはまるで無かった。
と言うより それはとてもいやだった。
今考えてみても それはある意味での差別とも思われる。
私の考えが違うかも知れないが
就職クラスにいると勉強する意欲が無くなっていく気がした。
体験していないけれど そうだろうと思った。
私は先生に断って親の意向も伝えたけれど
たとえ進学できなくてもいいから
進学クラスで勉強したいとはっきり言った。
私をよく理解してくれていた中2の担任の先生は
それを承知してくれて 私は晴れて進学クラスにすすんだ。
15クラスのうち2クラスが就職クラスだった。
残りの13クラスは進学クラスとして四月からスタートした。
心の中に小さなわだかまりを抱えながら
私の中学3年生がスタートした。
勉強が進むにつれ たびたび繰りかえされる
模擬テストで 志望校の欄に書く高校名は私の行く高校ではなく
私の夢見るだけの高校だった。
どこかで 何かを裏切るような気分で
それでも私はまじめに勉強した。
それは自分に対する励ましだった。
自分をいつも高いところに置いて頑張ってみよう
やってみようと励まし続けた。
今思えば なんとけなげな中学生だったんだろう。
それでも今までどうりの友達と
中間考査や期末考査の話に盛り上がれるのが
愉しかった。
就職クラスに進んでいたら どんなに寂しい思いを
しただろうと思うとぞっとしていた。
こういう生活の中で 精神も培われていったんだろう。
強情な自分を時々褒めてやりたい気もするが
多分鼻持ちならないところもあっただろうと思う。
親や兄弟はどんな気持ちで私を見ていたんだろう。
親の気持ちまで配慮する余裕は無かったが
進学クラスに入る事までは反対されなかった。
それは 私の人生全体にかかわっていたのだと いまそう思う。
自分の精神生活に大きな影響を持っていたと。
それが加代さんの加代さんたるゆえんだね とその時の先生が
おっしゃったのをかすかに覚えている。
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(9/19 更新)
19章 読書 |
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そろそろ 今年も秋の気配が濃くなってきました。
ホームページを立ち上げて以来 読書から遠ざかっているかんじですが・・・。
中学生の頃からまあまあ 読書は嫌いではありませんでした。
夏休みの宿題で長編物の感想文などが出されると
なんとなく 億劫であとまわしにしていたことを思い出します。
そのくせ 兄や姉たちが昔読んだ本などがあると 興味が出て
どんなのだろうと覗いてみたものです。
学徒動員とかでゆっくり読書も出来なかった兄たちは
それほど読まれなかったかもしれませんが、
姉の読んだ文庫本などは時にふれ開いてみたものです。
そういえば 小学校の頃 一番上の兄が小さい私たち下の3人に
時たま小学館の雑誌を1冊づつ買ってくれたことがありました。
それが嬉しくって隅から隅まで読んでいたのを思い出します。
今でも本屋さんに小学○年生 とかいう雑誌が学年別にありますが
あの当時は その本が唯一たのしみなものでした。
付録も丁寧に作ったりして 今のように放り出すことはなかった気がします。
物が少ないということは素晴らしいことだなあと このごろつくづく思います。
あの頃読んだ本をいちいち覚えてはいませんが
印象に残っているものは下村湖人 の 「次郎物語」。
最近あまり話題にならないけれど 当時は学校でも勉強したように思います。
山本有三の「路傍の石」 「真実一路」
とか坪井栄の「二十四の瞳」なども記憶にあります。
でも ある日私は見つけてしまったのです。
それは 外国もので、モーパッサンの「女の一生」でした。
今まで読んだものとまるで違う内容。
大人の世界を覗くようで あのドキドキした気持ちは忘れられません。
フランス文学なのに なぜか隠れるようにして読んだものです。
母が用事で呼びに来たら あわてて本を閉じたり・・・
今のようにあっけらかんとしていたら とても感じることのない
少女らしい羞恥心を経験していたようです。
今の人のようにメディアが全てを教えてくれるのとはまるで違った
あの頃の人はみんなそうだったと思います。
それは 純粋で素朴で 羞恥心がいっぱいで。
何も分からない時から テレビなどで知らされてしまう今の子たちは
逆に可愛そうな気がします。
そんなことが とっても新鮮で素晴らしかったなあ〜と 今感じています。
読書の楽しさがそうやって 少しづつ分かり あれこれ濫読しながら
成長していったのかもしれません。
そうやって やがて恋を恋し 恋を知り染めていったわけで〜
時代の背景が 人を変えるものだなあと 思います。
活字メディアの強い印象は 映像のようなメディアをはるかに凌ぐものだと
言うことを 文言で識ったのはずっと後でした。
そんな体験を いまふっと思い出して
あれが 若いということだなあと とても懐かしいこのごろです。
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(8/4 更新)
18章 白鳥の湖 |
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ちょっと戻りましたが 中学校の生活は順調に過ぎて行きました。
なんとなく大人びた気分になった私はいろんなことに
興味を持ち始めたようです。
5歳 としの違う姉は私に色んな影響を与えてくれた気がします。
姉は稼業の理容業 つまり床屋さんを手伝うことを余儀なくされて
居ましたから 私が学校から帰るといつも一緒に居られたわけで
それだけ 姉から吸収したものは多かったと思います。
音楽の趣味も読書も少しづつ姉のそれに傾いていきました。
後に俳句や短歌に親しんだのもこの頃に始まったような気がします。
手芸や洋裁も姉からの受け売りがほとんどです。
その頃はまだテレビも普及されず ラジオが主流でした。
散髪の仕事をしながら 姉はいつもラジオを聴いていたわけで
クラシックから ポピュラーまで 幅広く聴いていて、
私もよく一緒に聴き そして覚えて行きました。
“労音”という言葉を今知ってる方は少ないかも知れませんが。
その当時の唯一私たちでも
実体験できる音楽の世界だった気がします。
姉がその会員だったので 私もよく連れて行ってもらいました。
クラシックも分かりやすいものには連れていってくれました。
軽音楽もポピュラーな物からジャズまで幅広く
私は其れがすごく楽しみになって行きました。
東京キューバンボーイズ なども懐かしく思い出します。
そんな例会のある時は学校の授業が終わるのを
待ちかねて飛んで帰ります。
姉はというと 殆ど例会があるのは土日が多く 店が忙しいわけですが、
姉の唯一の楽しみと分かっているので
母が手引きして 父の目を盗むようにそっと裏から抜けて・・・。
それでも ばれて父から怒鳴られるほどのことも無く、又次回も繰り返され。
懐かしいなあ〜〜。
今 思い出してもわくわくしてしまいます。
父母はそんな風に子供思いというか いい父母でした。
あれはいつだったのか,
八幡製鉄の体育館で例会がありました。
その日は チャイコフスキーの 白鳥の湖 の公演でした。
早くから行かないと良い席が取れないこともあり
担任の先生に打ち明けたのです。
若かった先生は大賛成してくれ最後の時間を受けずにOK。
長蛇の列が製鉄体育館を取り巻きやっと席について・・・
もう 息もつけないほどの感動であの美しいバレーの舞台と
素晴らしいオーケストラの演奏に酔い しびれたものでした。
もちろん 私にとって生まれてはじめての経験でした。
感動が 年とともに薄らぐこのごろでも
あの日の思いでは心の奥底に残っています。
おかっぱ頭の自分がどんなに目を輝かせて舞台を見つめていたのか
姉と何を語りながら帰ったのか・・・。
懐かしさがいっぱいです。
幸せな中学生だったなあと いましみじみ 思います。
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(6/29更新)
17章 大水害 |
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今日
リバーウォークで昭和28年の北九州大水害の写真展を見た。
奇しくも 6月28日 今日がその日である。
それは私が小学校6年生の時のことだった。
ここの話は年を追って書いてきたのでちょっと前後してしまうわけだが
写真展を見ているうちに断片的だが、昨日の事のように思い出したので
少し書いてみることにする。
その日はたしか日曜日だった。
家族はそれぞれの仕事や用事で出かけ家に居たのは
母のほかは私と弟だけだったように記憶している。
当時 住んでいた木町は紫川にごく近い場所。
降り続いた雨で 家の裏の溝も 表の溝も水がいっぱいだった。
裏の庭のほぼ真ん中に井戸があった。
どんどん水が増え始め昼ごろには井戸のふちの高さまで水が来てしまった。
すると家の中にも水が入ってくる。
私と弟は大声で騒ぎながら母の言うことを聞いた。
畳が水浸しになる.。はぐって立てかけるが追いつかない。
押入れの下段の布団が心配になり机の上に布団を積み重ねた。
ところが木の机はやがて浮いてしまった。
瞬く間にぐらっと揺れて布団は水の中へ〜。
もうどうしようもないと 母に急かされて表へ出ようとした時、
表の溝に掛かった木のふたが浮いてしまっている。
溝の巾は5・60cmもある。落ちれば溺れる深さである。
水の増えていく速さに母も驚きあわてたのだろうと思う。
それまで家の中で何か興奮し、緊張もしていたけれど
いっぺんに恐怖に変わって泣き出しそうだった。
母に手を引かれ弟と一緒にやっとのことで溝を渡った。
もちろん道路も水浸し。その中を必死で歩いて知り合いの家に非難した。
何を持ち出したかそんなことは覚えてない。
夜その家ともう一軒の家に家族8人は分散して
泊めてもらった。
県営アパートの確か2階だったと思う。
そこの人の優しさや あたたかさが嬉しかった。
でも 興奮して姉も私も眠れなかった。
翌日学校でみんなその話で持ちきりだった。
家が浸水したという友達が沢山居た。
それから片付けや色んなことをしたのだろう。
その後の細かいことは覚えてない。
ただ、水がどんどん増えていったあの時の記憶だけが鮮やかに残っている。
北九州の沢山の人がなくなったというすごい水害だったということは
あとで知ったことだった。
兄弟がみんな色んな場所で水に浸かり大変だったこと。
でもみんな無事だったことを喜び合った。
それからしばらくして 救援物資が届き
町内の人みんなで衣料品を分け合ったことも記憶している。
写真展でモノクロの生々しい写真を見ながら
こんなに大変なことだったんだと いまさらのように思出だしている。
※あらためて あの時に亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
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(5/27更新)
16章 中学生
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ちょっとセンチメンタルな気分を味わった卒業式から1ヶ月足らず、
中学の入学式を迎えた私たちは・・
いや私はというべきか。
中学校の雰囲気があまりにも大人っぽいことに戸惑った。
全てに一人前の扱いを受けることがとても大人になったと感じた。
S中学校は私たちのK小学校と別にI小学校からも来ていた。
自分のクラスに知っている顔は半分も居ない。
一クラス50人以上も居てそれが15クラス。
学年で800人も居たわけで今考えると大変な数だ。
担任の先生は明るい若い女性で英語が専門。
それ以外に各教科の先生が入れ替わることがまず驚き。
体育の先生はきびしそう〜。
神経質そうな理科の先生。
数学の先生の眼鏡の奥の目が怖い。
校長先生よりも 教頭先生がすごく印象的。
兄や姉の話に良く出てきた「ブルドック」 というのは
この先生だと気づいた時は苦笑した。
夏目漱石の坊ちゃんよろしく 先輩の姉たちから聞いた
あだ名を思い出すとなんとなく笑いがこみ上げる。
教科書の多さにも圧倒される。
英語の教科書がものめずらしい。
未知の世界を覗くようにページをめくってみる。
私は中学校での3年間 充実した時を過ごした。
その始まりが 愉しい担任で英語のM先生だったと思う。
もしかして 先生はこのページを読むことがあったらどうしよう〜〜。
でも本当に愉しい先生だったから愉しいことを書こう。
まず 家庭訪問の時期を迎えた。
先生は訪問する家の生徒たちを数人従えて歩く。
私たちは面白がって色んな質問をしながらついて歩いた。
訪問した家から先生が出てくるのを遊びながら待っている。
やがて先生はニコニコして戴いた菓子の包みを見せながら出て見える。
いくつか貯まったとき 小川の橋の下に下りて わいわい言いながら
「さあ みんなで食べましょう」
春の日差しがまぶしい午後 小川のせせらぎを見ながら
英語ぺらぺらの若い先生と甘いお菓子を戴くのは
お菓子の少ない時代だっただけに余計に嬉しくて〜
今でも甘酸っぱい思い出になっている。
その日から中学校が急に愉しくなった。
単純だが みんなもそう思ったに違いない。
ミッションの大学をその春出たばかりだった先生は
まだ 生徒の気分が抜けてなくて、私たちと同じ目線に居たのかもしれない。
少し月が過ぎていくと 何人かでいつも先生の手伝いの居残りをさせられた。
頼まれた用事をやっていて 途中質問があって先生を探すと
体育館でキャッキャとバレーボールに興じていることがあったり・・・。
「先生!!ひど〜いっ!」 私は先生に抗議をすることがしばしばだった。
「ごめーん ちょっと待って。 ほら これで回転饅頭買ってきてよ」
こんな具合で先生だか生徒だか分からない会話をしながら
私たちは結構愉しい時間を共にした。
最近の中学生もこんなことがあるだろうか。
PTAがちっともうるさくなかった時代の のんびりした環境の中で。
それでも勉強は結構良くしたと思う。
それがいい時代の青春の始まりだったかもしれない。
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(5/10更新)
15章 卒業 |
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話を元に戻そう。
小学校時代はこんな風に質素に 素朴に 無邪気に過ぎていった。
古い木造の校舎と 二宮金次郎の像が建っている校庭。
放課後 残って先生の手伝いをした職員室。
ガリ版で みんなの作文を刷る、あの鉄筆で字を書く感覚も覚えている。
手をインクだらけにしながらプリントを何枚も刷ったり〜。
脱脂粉乳の給食はまずいとしょげたり
たまにぜんざいなんかあるとすごく喜んで大騒ぎしたり・・・。
DDTを髪の毛に撒かれて真っ白になったり・・。
いくらだったかお金がなくなったとき その原因が分かるまで
全員を帰さず 真っ暗になるまで真剣に調べたり。
いつも宿題がいっぱいで遊べないし
よそのクラスより一番帰りが遅いとぶーぶー言ったり、
いろんなことがあったがどんどん時は過ぎて行き
卒業式の日を迎えた。
卒業式の日 H先生はえんじ色の着物に紫紺の袴姿でお見えになった。
みんなでうわーと騒ぎながらも私は先生を素敵だと思った。
いつもと違う凛々しいお姿を今でも覚えている。
独りずつ卒業証書を手渡しながら
もう覚えてないが
先生の言葉もひとりひとりに頂いたと思う。
ほかのみんなはそうではなかったかもしれない。
けれど 永い間病と闘った自分が
みんなと同じように卒業できたことが
私には凄いことだった。
卒業式の席で私はそっと涙を拭いていた。
そして母はもっと泣いていただろう。
その夜母はやはり卒業証書と戴いた賞状を
仏壇に供えて手を合わせていた。
私も黙って見習った。
後に先生は話されたことがあった。
学校を出て ある工場で仕事をしていたことがあった。
病気をして仕事を離れ また学校に復帰なさったとか。
その初めての生徒が私たちであったと。
だから ひとしお熱心であったのかもしれない。
私たちの印象は先生の中でも大きかったんだろう。
やがて私たちはこの小学校を巣立って行き、
まるで自分の力で大きくなったように
先生や学校のこともほとんど忘れて
そして新しい次の環境の中で 目を輝かせていただろう。
自分たちの中でも先生は大きな存在だったと気づいたのは
ずっと後のことだった気がする。
ちなみにこのクラスからは 素晴らしい方たちが
沢山出ている。きっと基礎が良かったに違いない。
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(4/21更新)
14章 同窓会 |
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四月の細い雨が降る中, 私たち8人はH先生の墓の前で始めて手を合わせた。
それはH先生が亡くなられて10年も経っていたが
帰省したひとりが言い出して, 集まった私たちの気持ちはひとつだった。
遠く東京から 鹿児島から 広島から 博多からとそれぞれ集まったみんなは
やっと果たした墓参でなんとなくほっとしていた気がする。
先生は独身のまま他界され 今お墓やお宅を守っておられるのは甥ごさんに当たる方。
優しく親切なその方に案内されて墓地へ続く細い道を登りながら
その方は先生が晩年お茶の世界に没頭しておられた話などして下さった。
先生のお宅では今も追悼の茶会などが行われているという。
お弟子さんや孫弟子さんが慕っておられるのだろう。
やはりH先生だからこそ〜〜と思う。
花を手向け 線香を焚きながらみんなは明るい話題で先生を偲んだ。
お墓を後にした私たちは思い思いにおしゃべりしながら 坂道を下った。
その昔の学び舎へ続く道をそぞろ歩くのは愉しかった。
最近の北九州の変わり方に 遠くから帰省した者はびっくりしている。
昨日もリバーウォークのオープンなどが話題になっているが
母校のへんはそんなに変わってなく 帰省してきたひとも懐かしがっていた。
在校中に創立80周年を迎えた小学校は既に120周年を超えている。
その小学校の門を入り記念写真だけはデジカメに収めた。
たまたま今年の新入生と父兄の方たちが居て
シャッターを切っていただいた。
「おじさんたちはこの学校の卒業生だよ」と話しかけると
「うわ〜〜卒業生〜?」
という返事が返ってきて明るい顔が笑っていた。
お母さん方も
「卒業生ですか〜?」
と驚いたように微笑んでいた。
これからこの子達はどんな人生を生きていくんだろう〜。
ふと1年生の可愛い子どもたちを見ながら私の心は複雑だった。
愉しい明るい道のりならよいが。
それにしても 長い道のりだった。
けれど 私たちの時代の方が楽だったのかもしれない。
これからどんな時代になるだろうと話し合った。
同窓会はその後大いに盛り上がった。
会のたびにメンバーが少しづつ変わり
今日48年ぶりに会って握手を交わしてる人どうしも居た。
またいつこんな会が持たれるだろう。
みんながいつまでも元気で居ることを祈りたい。
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(3/22更新)
13章 再会 |
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話が一気に飛んでしまうけれど
平成8年のちょうど今日 3月21日お彼岸に私たちのクラスの者が9人集まった。
そう 4年生のときの同級生、42年ぶりの再会だった。
その日に書いた文章が残っていたのでここに記してみる。
先生は平成7年8月に73歳で他界されていたが,先生の訃報は誰も知らなかった。
年賀状だけで繋がっていた人が多く 翌年先生からの賀状が届かないことから
誰とも無くそのことに気づいた。
そしてお参りすることがそのまま42年ぶりの同窓会となった。
駅前を歩く人達が振り返って微笑んでいくほど 上がる歓声、歓声・・・。
白髪交じりの人、少し薄くなった人、だいぶ肥った人・・・でもいずれも穏やかに
微笑みながら再会を歓びあった。
懐かしい先生の邸は昔のままの佇まいで 本家に入る門は今でもあの赤煉瓦のまま
どっしりと建っていた。
古い立派な仏壇の中に先生のお名前の一文字が入った戒名のお位牌が見える。
先生のお写真はふくよかに笑っておられ在りし日の面影が偲ばれた。
その前でお茶を勧められひとしきり小学校の頃の思い出話が弾んだ。
「計算が出来るまで帰してもらえず暗くなってしまって・・・」
「いつもほかのクラスより一番遅かったね」
「バケツを持って立たされるのに慣れてしまったよ」
「ほかのクラスに負けないようによく掃除させられたね」
「いつも宿題がいっぱいだったね」
「遠足の途中でおんぶしてもらったよ」
「あの頃長靴が欲しくてね・・買ったときはとっても嬉しかったよ」
「脱脂粉乳はまずかったね、あのせいかなあ今も牛乳がだめなのは〜」
「DDT撒かれたね〜 あれいやだった」
「N君がいつもアヒルの卵を弁当に入れていてさ それがすごい羨ましかった〜」
そばで先生の弟さんがにこにこ笑って居られた。
きっと先生も目を細めて聞いて居られただろう。
Aさんは独り般若心経を詠んでくださった。
そのあと近くで全員で昼食を取り愉しい時間を共有した。
42年前にタイムスリップしたように 意外なくらいみな変わりなく
自然に解け合って愉しい時間が流れた。
42年の歳月には 愉しいことばかりのはずは無く きっと
悲しいことも苦しいことも そして辛くてたまらないこともあったろう。
そんなことを全部通過して来た今だから みんな心から穏やかに
笑い合える気がする。
誰もが貧しかったあの時代をみんなで語った。
先生が骨身を惜しまず全員が解るまで教えてくれたこと
みんなの家庭の事情までわかった上で一緒に考えてくれたこと
お互いの体験を語ることでもっと先生を識った。
原点に戻って、原点を見つめなおすことによって
今の幸せがより大きな意味を持つ。
既に50代半ばの私たちはこれからの時代を心豊かに
すごさねばならないことを痛感する。
ものごころつき始めた 小学校上学年の3年間 H先生に習ったことが
私たちのその後の人生、人間性にもとても大きなかかわりを持ったのでは
無いだろうか。
H先生のことは矢張りみんなの胸の奥から消えてなかった。
最後にH先生のご冥福をこころからお祈りしたい。
これが7年前の同窓会だった。
それからまた何度か同窓会が開かれた。
今年4月に上京組みの独りが帰省する。
また何人かでお墓参りをする話が出ている。
亡くなってもここまで慕われる先生
そういう人にはなかなかなれないものだと思う。
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(3/5更新)
12章 進級 |
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こうして休む日が多かった3年生は終了し
わたしは4年生に進級した。
クラスがすっかり編成替えされ,担任の先生も変わられた。
でももう戸惑わなかった。
みんなが入れ替わり新しい友達との出会いを楽しめる余裕ができたのか。
この学年から6年生までそのままのクラスで持ち上がった。
それは愉しいクラスだった。
この時期の3年間というのは大きな意味があった気がする。
今振り返ってみてもその時からずっと続いている友は多い。
やっと体調も整って私はほとんど出席皆勤するほど元気になった。
その年の秋には初めて運動会にも参加できた。
いつも見学だった運動会に出る。
かけっこでは,終わりから数えた方が早かったが
みんなと一緒に走れることだけで嬉しかった。
指に紙で作ったお花をつけて大きな輪になって踊る。
見るだけよりこんなに楽しいと言うことを実感した。
家族と食べるお弁当も特に美味しかった。
家業は日曜日が忙しかったが母は無理をして
お弁当のときにきてくれ2年下の弟と一緒に食べてくれた。
母はどんな思いでこの運動会を見ただろう。
今振り返ったら 私はほとんど母の気持ちになってしまう。
そういえば 私が何かの賞をもらった時
母はその賞状を仏壇に供えて合掌していた。
敬謙な母の姿の意味が今解った気がする。
私は呑気に得意になっていただろう。
もう一つこれを書いていて思い出した。
いつの頃か私がクラスの委員に選ばれてバッジと辞令を母に見せたとき
「増長するんじゃないよ」と厳しく言われ
褒められると思っていたのにしゅんとなった思い出がある。
その時の母の気持ちが今解ったのかもしれない。
私は得意になって思い上がっていたのかもしれない。
友達と放課後も一緒に遊べるようになった。
友達のおうちまで出かけたり、きてもらったり〜。
そんなことが今までなかった私にはめずらしく愉しくてしょうがなかった。
私は元気になってやっと本来の子どもらしい毎日を
無邪気に送っていたのだろう。
担任のH先生はすごく厳しいけど半面とても優しかった。
それぞれの家庭のことまで把握してくれる、
素晴らしい先生だった。
その時期はそう思わなくても
年月が経って
素晴らしい教育者であったことにみんなで気づく。
それが自分たちの人生全体に大きく関わっていたということに〜。
そういうものかもしれない。
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(2/11更新)
11章 永遠に |
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その3年生の担任の先生は
笑顔のきれいな丸顔の美人先生だった。
授業のことや友達のことよりも
優しくて屈託なく笑う先生の顔を一番印象深く今でも思い出す。
ハンディを持った私に対してもなんの屈託もなく接してくれたような
気がする。
時にはクラスの全員をグランドに出して
思いっきりドッジボールをする。
そんなときの先生は大声で笑いキャッキャと賑やかで
見学している私まで笑って楽しかった。
授業中も 私には分かりやすくて楽しかった。
自分がしょっちゅう気分が悪くなったりすることや
心無い男の子にからかわれたりすること以外は
先生とも友達ともなんとか問題なく過ごしていたように思う。
その先生がなくなったという話を聞いたのは
それから数年後 私が中学から高校に入った頃だったと思う。
それも自ら命を絶ったという。
信じられなかった。
私が苦しい時代を周りのみんなに支えられて
やっと元気になったとき
明るい笑顔で迎えてくださったあの先生が〜〜。
何で自ら死を選ぶなんて…
あまりにも皮肉な現実に胸の潰れる思いが私を襲った。
人の死についての思いを深くしたのは
私の人生の中で初めてのことだっただろうと思う。
先生に何があったのか誰も話そうとはしなかった。
喜怒哀楽がはっきりしすぎたとか
ヒステリックだったとか〜
色んなうわさ 特に先生を良く言わないうわさは
私の中で消してしまった。
人は時として死を選ぶしか道がない
そういう時もあるんだ。
そう思って自分の気持ちを整理したのかもしれない。
ショックが大きかった。
もう永遠に帰ってこない先生。
でも私はこの先どんどん元気になって
やっと取り戻した自分の時間が
永遠に続いて欲しいと思っていたのに…。
先生は帰ってこないけれど
私は取り戻した自分の時間を
ゆっくり大事に使っていかなければ〜〜。
ふと思い出した先生の不幸を
今にして思えばまた違った見方があるかもしれない。
でも思春期の始まりの頃に感じた
まっすぐな気持ちはやはり大事にしたいと思う。
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(1/26更新)
10章 後遺症? |
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新しい3年生は何とか過ぎていった。
辛い事にもだんだん慣れて行ったが
私の中の気後れはなかなか平常にはならなかった。
みんなより一つ年上ということは
それから先ずっと私が背負った荷物だった。
学校を出てしまうまでどこかに引っ掛かりがあった気がする。
しかしそれよりももっと大きい悩みが私の中にはあった。
私はいつからかはっきり解らないままに
口が大きく開かなくなっていた。
はじめそれを訴えても誰も問題にしてくれなかった。
物を食べにくく 周りの人に言っても「そのうち直るよ」と言うだけ。
口が開かないなどと言う現象は少ないからか〜
お医者さんさえ大丈夫そのうちと言う感じですぎていった。
私もそうなのかなあと思っていた。
高熱が続いたその後遺症かもしれない。
その原因すらはっきりしないままに年月が過ぎ〜
親指1本すら入りにくいくらいしか開かない。
普段しゃべったりしても誰も気づかないが
給食の時間がいやだった。
押し込むようにして食べる、
それをわざわざ真似る酷い男の子もいた。
好きな音楽の時間も大きな口をあけて〜
と言われると下を向いた。
誰もが気にしてなかったわけではない。
母はひそかに人に尋ねいろいろ心配して心配して〜
結局 宗教に傾いていった。
今思うと 経済的にも母の気持ちが痛いほどわかる。
私はただ母の言うとおりに従うしかなかった。
それまで宗教に縁のなかった家の中で
他の兄弟とは別に自分だけが母と一緒の行動をすることに
抵抗はあったが それは自分のためと
子供心にも理解した。
母と二人で色んなところに行った。
そこで合掌し 母の言うとおりに何でもした。
たまに父も同行することがあったがほとんど母と二人で。
あるとき 母の言うまま合掌し目をとじ
そばで話している母たちの話をぼんやり聞いていた。
暫く経って 「ほらこのお子さん眠っていても手を合わせてますよ
神様のお力ですね」 という声に気づいた。
私は手をほどくことも出来ず〜じっといつまでも合掌していた。
何故かそんな記憶が断片的だがはっきりとある。
子どもってたかが10歳やそこらでも
親や周りに気を遣うものだと
いまそんなことを考えてしまう。
そういえば 最近の子どもたちだって
大人の気づかないところで
気を遣ってるかもしれないなあ…ふっとそんな気がする。
私のささやかな試練はこのままかなり永いあいだ
持ち越すことになる。
それがもし後遺症だとしても
足が不自由になることに比べたら
どんなにか楽なことだったと思う。
ゆっくり振り返ってみようかな・・・・。
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(1/8更新)
9章 もう一度3年生 |
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2年間近く病気をしていた私は
一体何を考え毎日どう過ごしていたのか
不思議なくらいはっきりとした記憶がない。
寝たきりのときが永く 歩くことが叶わなくなり
再び歩けるようになるまでは 大変な道のりだったと思う。
途中かなりよくなって 学校に出てみるが
またぶり返して登校できなくなる。
そんなことも繰り返し結局3年生も終わってしまった。
やっと学校に戻ったのはみんなが四年生になった時。
けれど私は2年生もほとんど出てない。
学校では職員会議が開かれ
このまま四年に進級するか 3年からもう一度やり直すか
と意見が分かれたが 九九の基礎は大事だから
3年生から行くほうが選ばれたそうだ。
そうして私は入学したときに一緒だった友達みんなと
別かれることになった。
懐かしい学校にやっと戻ってきたのに
教室の中には知らない人の顔ばかり〜。
たまに廊下で前の友達に会っても
いろんなことを聞かれ 新しい友達からも
珍しそうに見られて悲しかった。
そしてやはり体調は完全ではなくまだ欠席する日も
かなりあった。
辛い3年生だったと思う。
体育の時間はいつも見学だった。
運動会も出ることは出来ずしょんぼり見学した。
けれど勉強は嫌いではなく
今まで出来なかった教室での勉強は
興味いっぱいで楽しかった。
ある身体検査の時 お医者さんに
いろいろ聞かれそこを歩いてごらんと言われた。
私は普通に歩いて見せた。
ほーよかったね、良く治ったね。
と笑顔で言われたことを覚えている。
あとで聞いた話 この病気でこんなによくなった人は
珍しいとのことで
足が不自由になる人も多いと言う。
やっぱり私はしあわせなんだとその時思った。
家で母に話し一緒に泣いたことを覚えている。
他界して既に33回忌も済んだ父と母に
兄弟たちにどんなに苦労をかけた事だろう。
感謝 感謝!!
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(12/28更新)
8章 病気 |
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私は小さい頃からあまり丈夫ではなかったらしい。
小学校へ上がってからも体調が悪くてお休みすることがよくあった。
2年生の夏 丁度小倉の祇園さんの日に
姉たちに連れられて祇園さん参りに八坂神社まで行くことになった。
毎年それは私たちの楽しみの一つだった。
お参りして賑やかな太鼓の音を聞きながら夜店をぶらぶら歩きまわり
わずかなおこずかいで わた飴やなんかを買って それがすごく嬉しかった。
が その日私は足が痛くなって八坂神社まで歩くことができず
姉におんぶしてもらって家まで帰った。
その日が始まりで私の哀しい病気の日々が続いた。
その病気の記憶は断片的で 40度もの熱が何日も続き
祖母はお線香を上げて呪文を唱えていたのに
私は笑顔で小学館の雑誌を朗読していたとか〜
朝に晩に病院の先生が往診に来る日が続いたとか
あとで周りの人に聞いた話と自分の記憶がごっちゃになって
よくわからない。
夏休みを過ぎても直らず 2学期も3学期も私は寝たきりだった。
学校に行きたくて泣いていた。
あるとき担任の男の先生がお見舞いに来てくださった。
クラスのお友達が全員で書いた作文の束を
先生は持ってこられた。
嬉しくて泣きながら一枚づつ読んだ。
"つやまさん(旧姓津山)は絵がうまかったからいつもかいてくれよったね。
このごろはつやまさんがこないのでさみしいです。
早くよくなってまたにんぎょさんの絵をかいてください。”
と書いてくれた友達がいた。
何故かそれを今も覚えている。
みんなが3年生になっても私の病気は治らなかった。
それからまた1年間私は姉たちから九九を習ったり本を読んでもらったりしながら
耐えるしかなかった。
その頃の記憶があまり鮮明でないのはやはり病気の性なんだろうと思う。
家族がそのためにどんな辛酸をなめたか〜
それは今考えても 筆舌しがたいものだったろうと思う。
あとで解ったことは 脊髄カリエス という重い病気だったということ。
お盆や正月前にくたくたになって仕事しても
父と兄がお店で稼ぐお金はほとんど全部病院へ
母があれほど一生懸命でなかったら
兄弟がみんなで協力してくれなかったら
今の私はなかったのかもしれない。
やっぱりこれまで元気に生きてこられたことに
感謝 感謝 感謝から始めなければ〜。
何故か年の瀬にこんな文章を書くことになってしまった。
ある意味 これからが私の始まりかもしれない。
黎明期の自分を こわごわ思い出したけれど
この辺に自分の原点があるのかもしれないと思う。
2002年がもうすぐ終わる。
2003年 このページがどんな風に埋まっていくのか
自分にも解らないけど〜
まあゆっくり進んでみようと思う。
どなたさまもどうぞよいお年を・・・ m(__)m
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(12/11更新)
7章 自転車のわらじ |
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その頃 冬になっても家の暖房は
今のようなエアコンやファンヒーターなどは
夢にも知らなかった。
火鉢に練炭が起こっていたり
掘りごたつなんかも贅沢だったのだろう。うちには無く〜。
寒い夜は早くに布団にもぐりこむ。
それが一番あったかだったんじゃないかなあ。
父が布団に入ってるときに
そのそばに弟や兄も一緒に足を入れて
よく父の話に耳を傾けた記憶がある。
私たちがせがむと、 父は即興でよく話を作って面白い話をしてくれた。
父の話は、自分の生まれた佐賀の田舎で体験したことから
いろいろと発展していく。
そんな話が多かったような気がする。
あるとき 農家であまっているわらを使って
わらじを編んで それを売りに行く男の話をしてくれた。
ある日その男自分でわらじを編みながら考え事をしていた。
うっかりして寸法を考えずにどんどん、どんどんわらじを
編み続けてしまい気がつくと
とんでもない長さになってしまった。
さて 折角ここまで編んだものを〜
男はそこで考え込んだ。
編んだものをほどくのはもったいないし〜。
そうだ!もう少し編んで・・・
男はさらに編み続けた。
私たちは興味しんしんで話に聞き入る。
外は寒い北風が吹いている。
布団の中で父の足と兄弟の足がくっつきあって暖かい。
男はさらにもう一枚長ーいわらじを編み上げて・・・
さあこれで出来上がりだ。
雪道ですべって転ぶ自転車に履かせたら
きっと上手くいくぞ〜。
自転車のわらじは売れて売れて 男はお金持ちに〜〜
私たちはみんなで大笑いし
うそお〜っ と叫んでまた大笑い。
ほかの話は全部忘れたけど
自転車のわらじの話だけは
その後何度も繰り返され 記憶の中にまだ残っている。
考えてみたら父はユニークな発想のできる人だったのかも知れない。
雪の夜の思い出でした。
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6章 セコハン娘 |
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記憶が前後していますが
やがて私は清水小学校に入学しました。
こんな時代だから食べることがやっとで着ることなんて
考える余裕もなかったと思います。
当然ながら私の着るものはいつも姉からのお下がり
ばっかりでした。
当時の流行歌に “セコハン娘”というのがありましたが、
まさにそのセコハン娘でした。
それも5歳も年上の姉からのお下がりです。
しかも姉は標準より大きいくらいなのに
私は当時からちびちゃんで学校では
一番前にちょこんと座ってたくらいなので、
丁度いい洋服なんて着たことが無くて
大きすぎるのを上げたり 縫いちじめたりして
何とか着ている状態でした。
母は縫い物が得意ではなかったし 多分ほかの用事で
それどころでは無かったと思います。
そんな頃私が 初めて自分自身に縫ってもらったのが
入学式に着る洋服でした。
それも母のモスの着物をほどいて縫い直してくれた
もので、縫ったのは確か母の妹に当たる叔母さんでした。
すそ上げが10センチもあるようなスカートと
スモック風の上下お揃いは濃いグリーンと薄い色の
柄が入ったちょっと大人びたもので
私のたった1枚のお気に入りの晴れ着でした。
それは今も残っている白黒のスナップ写真で
見ることが出来ます。
それがどんなに嬉しかったか〜
今考えても
モスの生地の柔らかさが伝わってきて
嬉しくて嬉しくてしょうがなかった自分を
懐かしく想像できます。
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5章 おいしかった川蟹  |
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食べ物の思いではまだ続きます。
その頃の食卓に蛋白質は もっとも縁遠いものでした。
お魚もせいぜい鰯や鯖です。
お肉なんてあんまり食べた記憶がありません。
鯨がお肉の代用でした。
今は食べることがほとんど無くなった鯨の赤身が結構安くて
うちではお肉といえばほとんど鯨だった気がします。
ところが 我が父親はその蛋白質さえもしっかり供給してくれ
ました。
紫川はその頃まだまだ生きていました。
どんこや鮒、はや、どじょう、そして津蟹が食卓にのぼる日もあり
ました。
鯖や鰯の内臓を簡単な網に仕掛けて
貴船橋の上から水面にずるずると下ろします。
時間を見計らって網を引き上げると
甲羅に毛が生えた黒い川の蟹が
網の中いっぱいに動いてるのです。
月夜の蟹は身が無いといって、闇夜を選んで
父や兄たちと仕掛けを持って川に向かう時、
真っ暗い橋の上でじっと仕掛けを見守っているとき
もうなんだかわくわくしていました。
今と違ってその頃の夜は
外灯も少なく街の明かりはほとんどありません。
そんな真っ暗い橋の上に父や兄弟といることが
凄く怖いようで それでいてわくわくする愉しさを
今でも不思議と覚えているものです。
そして、翌朝母が茹でてくれた蟹は
赤黒くほかほかと湯気を立てて〜
なんともいえずおいしいご馳走にありつけるわけです。
兄弟で争って食べた蟹の味を懐かしく思い出します。
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4章 そら豆の思い出  |
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私は今でもそら豆がだいすきです。
この季節感のたっぷりある大きなそら豆を毎年その季節
が来ると必ず塩茹でしていただきます。
ビールにもあって美味しいですよね。
このそら豆には 幼い頃の思い出が重なっています。
まだ就学前のある暖かい日のこと
---何故か弟のことはみんな名前を呼ばずにようやん
ようやんと呼んでいました----
そのようやんと二人で父の畑の中を歩き回って遊んで
いました。
そのうちそら豆の花を見つけました。
薄紫に黒い点がある可愛い花です。
摘んでみて花の蜜が甘くて美味しいことを発見したのです。
甘いものに飢えていた性かも知れません。
そこいらじゅうの花を次々に摘んでは蜜を吸ってしまいました。
私たちは久しぶりに甘いものをたくさんいただいて満足だった
のですが〜
父に見つかってものすごく叱られたことは言うまでもありません。
その花がやがてあんなにきれいな若緑色のそら豆になるなんて
考えもしなかったのです。
この季節が来るといつも思い出すほろ苦い思い出ですが
小さかった弟は覚えているかなあ〜
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3章 母の買出し  |
母は何かしらいつもうちに居ませんでした。
食糧の調達に苦労していたようです。
配給の食糧を受けるために並んだり お米や芋の買出
しに遠く新田原までも満員電車に揺られて出かけたりし
ていました。
ある日母は薩摩芋を買って来るからとリュックをかるって
出かけました。ふかし芋はその頃大のご馳走でしたから、
私たちは母の帰りを楽しみに待ちわびていました。
けれどもその日遅くに疲れ果てて帰ってきた母の背中の
リュックから出てきたものは大量の泥だらけの大根ばかり
でした。
薩摩芋が手に入らなかったという事で その日から我が家の
食卓は大根ばかりでした。
煮つけやおつゆだけならいいのですが、お米の不足を大根
で補う大根めしはまずいという物ではありませんでした。
何しろ米の粒よりきざんだ大根の方が多いくらいで
調理法や味までは覚えていませんが、兎に角お米だけ
のご飯がどんなに食べたかったか、そんな記憶はまだ
小学校に上がる前だった私が覚えているくらいです。
一番かわいそうなのはまだ小さかった弟がこのご飯を
無理に食べさせると嫌がって涙を浮かべるほどだった
のです。弟はずっと大根が嫌いでした。
カボチャもよく食べました。今ならパンプキンなんとか〜
なんて ヘルシーな美容食ともてはやされていますが
その頃は小麦粉の代用にカボチャを使い、砂糖なんて
配給でめったに使えずサッカリンを少し入れたりして
それほど美味しくはありませんでしたが それでも未だ
いいほうで 段々ひどくなるとカボチャの茎や葉も食べ
たし 果ては花までも料理したのを覚えています。
薩摩芋の茎は今でも店に並んでいますが葉っぱだって
食べていたことがありました。
その頃のトマトは今食べているそれより薫り高くずっと
おいしかった気がします。
親や兄弟と馬鈴薯を掘ったり、薩摩芋の芋ほりをした思い
出も今考えると愉しいものです。
代用食の団子汁やカボチャのパンで私たちは
痩せてはいても とても元気で陽気な兄弟でした。
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2章 野菜を作る床屋さん  |
その頃私たちは 小倉の田町から同じ小倉の
木町に疎開してきたのです。
長崎の原爆は本当は小倉に落とされる筈だった
けれど、その日このあたりの天気が悪かったため
に長崎に落とされたのだと聞いています。
もちろん私は何も覚えていませんが、兄や姉はよく
焼夷弾が落ちた日のこと、それを翌朝早く見に行った
ことや拾ったことを話してくれました。
防空壕もはじめは家の床下にもぐっていたのが、
そのうち父が前の空き地に掘ってトタンの屋根を葺い
た話も聞きました。
これは私の記憶にもあります。
上の兄たちは学徒動員で勉強などぜんぜん出来な
かった話や機関区で働かされた話などもよくしてくれ
分からないままになんとなく聞いていました。
父は床屋さんでした。田町を疎開になり引っ越してき
た木町も道路を挟んで向側が疎開になったばかりで
お客さんはめったにない場所でした。
もともと佐賀の農家の生まれだった父は床屋の合間
に向かいの空き地で畑を作り食料の補給をしてくれ
ました。
というより畑をする合間に床屋をしていたようなもので
した。
父はたいていの野菜を手際よく作ってくれました。サツ
マイモ カボチャ トウモロコシトマト ジャガイモなど何
でもありでした。
それでも15歳を頭に6人の兄弟のおなかはソウ簡単に
は満たされなかったようです。
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1章 幼い頃の記憶
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一体子供の頃の記憶というものは何歳くらいから残っているもので
しょうか。
良く本を読んだりテレビを見たりしていると、 かなり幼い頃のことを記憶
している人が居たりして驚くことがありますが…
私の中にある一番幼い頃の記憶は、どうも防空壕の中で母親に抱かれている記憶なのです。
もしかしたらそれは後に親や兄弟たちが話しているのを聞いて自分の中でそう思い込んだのかもしれません。..
昭和15年9月生まれの私は終戦の時まだ5歳にもなっていません。
3歳や4歳の時に防空壕なんて
分かるはずもないし、自分の記憶もあいまいな気もします。
けれど その記憶は妙に暗くじめっとした感じで 何人もの人がひそひそと小さな声でしゃべっていて 何故かそれを何度も思い出すのです。
私よりも11歳も年上の長兄 9歳上の次兄 そして3歳づつはなれて姉 三番目の兄私と続き 一番下が又3つ下の弟の6人兄弟。
父母と併せて8人の大家族の私たちはあの時代どんな暮らしをしていたのでしょうか?
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